スキー場の設計やコンサルタントに多くの素晴らしい諸先輩達がおられます。先輩達はアカデミックな方々が多く学識レベル知識レベルがとても高い。わたしはというと見てくれからノン・アカデミック(渋笑)!
ただ、先輩達と違うことは、アルペンやフリースタイルの競技履歴があったことですかね。
私がコンサル業務を開始した初期の頃88年頃、大手電鉄系スキー場開発に携わらさせていただいた時に、担当者から「白川さんのご専門は何ですか?」と尋ねられたことが多々ありました
パット見若いのに偉そうにだ(今でも10歳以上若く見られてしまうことが多々)、重回帰だハフだ、森林コンパス(単にトランシットは重いから)で測量だなんだ、流量計算だなどなど言いのけ、山スキーやテレマークに詳しいしうまいし(失礼・プチ自慢)、山歩きがやたらと早い。当然スキーはうまい(あっ・これも自慢だわ)。クライアントさんからすると、重要な仕事をまかせるからには当然専門分野を尋ねたくもなる。
それにたいして、私の答えは、「体力です!」と自信をもって言いましたわ。これにはクライアントさま達にはひとまず大うけであったことは言うまでもない。
冗談ぽく思われるでしょうが、当たってるのです。仕事の内容はと言うと、ヤブやら立木が密集する山林の中をひたすら歩く歩く、そして登る登る、滑る滑るの繰り返し。体力が無いことには絶対できないお仕事には違いない。
大学はスキーとは無縁な投擲で陸上部特待生として体育会に入部したので間違いなく専門は「学力」・・・ではなくてズバリ「体力」。最もぉ、自分がやりたいこの仕事を職業とするために、生まれて初めてくらい?勉強したし、測量や土木設計も独学。なかでも体力と無縁な統計が一番大変。そしてです、現場で実践をこなしていったのさっ、というわけです。その数も100箇所くらいとなってしまった。場数をこなしていくうちに事業計画策定の経験値と精度は段々とアップ。
その私の原点と言っていいフリースタイルマインド(アルペン競技も経験あるけど)が設計コンサルタント業務に大いに反映したことは言うまでもありません。
特に、エアリアルをしたいが為に70年代後半から80年代初頭に色々スキー場でジャンプ台を作りまくり。いわゆるゲリラジャンプ台というスキー場でも最も恐れられる代物。まさにディガーの原点だったかも。ただし、ディガーのような格好良さはなかったですね(笑)。それより緩斜面から急斜面の変化点を探してジャンプ台を作っていたので、ナチュラルヒット台の原点といった方が近いかもしれません。
私がこの仕事を始めた時(86年~92年頃)には、フリースタイルの施設を作るなど言うことは許されない時代、せいぜい隠れモーグルコースやエキストリームコースを、設計図書表記として書き入れたいモーグルという言葉を削除して作る程度。がしかし、たった長さ200m程度幅は圧雪車2台分程度の斜面に多くの人を滞留させることができるモーグルゲレンデは当時混雑していたスキー場にとってキャパシティ分散のためには非常に有効となる設計技術なのですよね。
前回紹介したキャパシティはフラットな斜面を滑り降りるためのもの。ざっくり言うと時速30~40km換算では一人当たり1000平米必要となります。しかしモーグルコースはコースサイドで立ち止まる人が多いこともあり一人200平米程度で算出可能。まさに日本に適したゲレンデと言えるのですよね。フランスでも教えて貰えなかった私独自の算定数値でした。今ではパークなどのアトラクションでも同様の計算手法があります。滑走する高低差で満足度を得られなくなってきたとも言えますね。
日本のゲレンデで、モーグルをスキー場の集客路線として取り込んだ最初の事例は「白馬さのさか」です。この運営会社の顧問を12年間携わらさせていただき様々なことを現場で実践できましたね。日本で初めてトライした圧雪車での人工コブモーグルコース作り、ついには型枠工法モーグルメーカー(特許)をスキー場と開発しました(今では多くのスキー場のコブ作りに貢献)。さらにはコースオペレーターと称してエア台やコース管理をするスタッフを常勤させたことも今で言うディガーの始まりでした。またコース利用での誓約書システムや安全管理手法など、当時どこにも実績がなく、試行錯誤でシステムを作っていきました。
98年頃のピーク時には正面ゲレンデのモーグルコースに1000人集まったときは正直感動ものでした。8000平米のコースにシーズンでモーグル目的に5万人程が訪れてくれました。索道乗車に約80人、リフト待ち20分ほど発生してので約400人がリフト待ち。そしてレストランにも数十人。スタート地点に100人、ゴールにも100人、コースサイドとオンコースが200人というすさまじきかな光景でした。
このゲスト人数となったのには大きな理由があります。コンピューター通信の元祖ニフティサーブのとある会議室の人たちに支援してもらった功績が一番大きかった・と振り返ります。今で言うブログやmixiの原点でしょうか。会議室が情報発信となりそれが究極の口コミとなり、次々と全国からモーグルファンが集まってきました。当時モーグルは八方の兎平の人気が圧倒的だったのですが、1~2年で小さくて無名な「白馬さのさか」にモーグルスキーヤーが集中したのです。
小さなスキー場が全国区になっていった実績としては、私の記憶では70年代に基礎スキーで一世を風靡した「浦佐」が唯一の事例だったと記憶しています。スキージャーナル誌に頻繁に紹介され、検定は浦佐ということのイメージが定着し、大規模スキー場と戦えるソフト手法の起源でしたね。「白馬さのさか」は基礎から分野を変えてモーグルで全国区になったわけです(がしかし、ソフトという代物は常に改善や改革、新たなアイデアが無い限り、必ず廃れるものですよね)。
さらに、自身でモーグル・フリースタイルジャンルのメルマガシステムを作り年々徐々に拡大、95年頃には3000人だった会員がピーク時(00年)には5万人までとなりました。
ホワイトピアたかす、ブランシュたかやまにも同様のモーグルコースを造りました。
同じモーグルでも、それぞれのスキ展開ー場の地形など環境の違いを逆出にとって「さのさか」とは差別したセグメントされたモーグルコースとしてです。ブランシュたかやまは斜度14度で「さのさか」ユーザーよりエントリー向けに展開、ホワイトピアたかすは20度200mのコースを造成して作り公認コースとした東海地区で初めてのアスリート仕様、現在東海地区では一番有名なコース作り職人のカトペがしっかりとスキー場の社員となって作っているとのこと。どちらもマス層のモーグル愛好家で今でも元気に運営中です。
キャパシティという概念は、常にスキー場経営に付きまとう不可欠な判断材料なのです。
スキー場の方はスキー場の一部のコースが死んでいて人がいないためになんとかしたい、と言われることがあります。キャパシティを均衡に活性化させたいのは経営者の心理ではあります。
そう言ったシチュエーションはどこにでもあって、社内や地域でもアイデアは結構出るものです。若い人たちにはアイデアを創出するチャンスを与えることも必要でしょう。収支性をともなう現実性まで深く考えることも訓練となるでしょう。ただし、生まれるかもしれないアイデアの目を潰すことだけは避けていただきたい。チャンスを与えないことで、若い人たちがネガティブなること自体がスキー場経営にとって最も大きな損失だと思うのです。
<お問い合わせ・ご意見:cava@freestyle.co.jp>
ただ、先輩達と違うことは、アルペンやフリースタイルの競技履歴があったことですかね。
私がコンサル業務を開始した初期の頃88年頃、大手電鉄系スキー場開発に携わらさせていただいた時に、担当者から「白川さんのご専門は何ですか?」と尋ねられたことが多々ありました
パット見若いのに偉そうにだ(今でも10歳以上若く見られてしまうことが多々)、重回帰だハフだ、森林コンパス(単にトランシットは重いから)で測量だなんだ、流量計算だなどなど言いのけ、山スキーやテレマークに詳しいしうまいし(失礼・プチ自慢)、山歩きがやたらと早い。当然スキーはうまい(あっ・これも自慢だわ)。クライアントさんからすると、重要な仕事をまかせるからには当然専門分野を尋ねたくもなる。
それにたいして、私の答えは、「体力です!」と自信をもって言いましたわ。これにはクライアントさま達にはひとまず大うけであったことは言うまでもない。
冗談ぽく思われるでしょうが、当たってるのです。仕事の内容はと言うと、ヤブやら立木が密集する山林の中をひたすら歩く歩く、そして登る登る、滑る滑るの繰り返し。体力が無いことには絶対できないお仕事には違いない。
大学はスキーとは無縁な投擲で陸上部特待生として体育会に入部したので間違いなく専門は「学力」・・・ではなくてズバリ「体力」。最もぉ、自分がやりたいこの仕事を職業とするために、生まれて初めてくらい?勉強したし、測量や土木設計も独学。なかでも体力と無縁な統計が一番大変。そしてです、現場で実践をこなしていったのさっ、というわけです。その数も100箇所くらいとなってしまった。場数をこなしていくうちに事業計画策定の経験値と精度は段々とアップ。
その私の原点と言っていいフリースタイルマインド(アルペン競技も経験あるけど)が設計コンサルタント業務に大いに反映したことは言うまでもありません。
特に、エアリアルをしたいが為に70年代後半から80年代初頭に色々スキー場でジャンプ台を作りまくり。いわゆるゲリラジャンプ台というスキー場でも最も恐れられる代物。まさにディガーの原点だったかも。ただし、ディガーのような格好良さはなかったですね(笑)。それより緩斜面から急斜面の変化点を探してジャンプ台を作っていたので、ナチュラルヒット台の原点といった方が近いかもしれません。
私がこの仕事を始めた時(86年~92年頃)には、フリースタイルの施設を作るなど言うことは許されない時代、せいぜい隠れモーグルコースやエキストリームコースを、設計図書表記として書き入れたいモーグルという言葉を削除して作る程度。がしかし、たった長さ200m程度幅は圧雪車2台分程度の斜面に多くの人を滞留させることができるモーグルゲレンデは当時混雑していたスキー場にとってキャパシティ分散のためには非常に有効となる設計技術なのですよね。
前回紹介したキャパシティはフラットな斜面を滑り降りるためのもの。ざっくり言うと時速30~40km換算では一人当たり1000平米必要となります。しかしモーグルコースはコースサイドで立ち止まる人が多いこともあり一人200平米程度で算出可能。まさに日本に適したゲレンデと言えるのですよね。フランスでも教えて貰えなかった私独自の算定数値でした。今ではパークなどのアトラクションでも同様の計算手法があります。滑走する高低差で満足度を得られなくなってきたとも言えますね。
日本のゲレンデで、モーグルをスキー場の集客路線として取り込んだ最初の事例は「白馬さのさか」です。この運営会社の顧問を12年間携わらさせていただき様々なことを現場で実践できましたね。日本で初めてトライした圧雪車での人工コブモーグルコース作り、ついには型枠工法モーグルメーカー(特許)をスキー場と開発しました(今では多くのスキー場のコブ作りに貢献)。さらにはコースオペレーターと称してエア台やコース管理をするスタッフを常勤させたことも今で言うディガーの始まりでした。またコース利用での誓約書システムや安全管理手法など、当時どこにも実績がなく、試行錯誤でシステムを作っていきました。
98年頃のピーク時には正面ゲレンデのモーグルコースに1000人集まったときは正直感動ものでした。8000平米のコースにシーズンでモーグル目的に5万人程が訪れてくれました。索道乗車に約80人、リフト待ち20分ほど発生してので約400人がリフト待ち。そしてレストランにも数十人。スタート地点に100人、ゴールにも100人、コースサイドとオンコースが200人というすさまじきかな光景でした。
このゲスト人数となったのには大きな理由があります。コンピューター通信の元祖ニフティサーブのとある会議室の人たちに支援してもらった功績が一番大きかった・と振り返ります。今で言うブログやmixiの原点でしょうか。会議室が情報発信となりそれが究極の口コミとなり、次々と全国からモーグルファンが集まってきました。当時モーグルは八方の兎平の人気が圧倒的だったのですが、1~2年で小さくて無名な「白馬さのさか」にモーグルスキーヤーが集中したのです。
小さなスキー場が全国区になっていった実績としては、私の記憶では70年代に基礎スキーで一世を風靡した「浦佐」が唯一の事例だったと記憶しています。スキージャーナル誌に頻繁に紹介され、検定は浦佐ということのイメージが定着し、大規模スキー場と戦えるソフト手法の起源でしたね。「白馬さのさか」は基礎から分野を変えてモーグルで全国区になったわけです(がしかし、ソフトという代物は常に改善や改革、新たなアイデアが無い限り、必ず廃れるものですよね)。
さらに、自身でモーグル・フリースタイルジャンルのメルマガシステムを作り年々徐々に拡大、95年頃には3000人だった会員がピーク時(00年)には5万人までとなりました。
ホワイトピアたかす、ブランシュたかやまにも同様のモーグルコースを造りました。
同じモーグルでも、それぞれのスキ展開ー場の地形など環境の違いを逆出にとって「さのさか」とは差別したセグメントされたモーグルコースとしてです。ブランシュたかやまは斜度14度で「さのさか」ユーザーよりエントリー向けに展開、ホワイトピアたかすは20度200mのコースを造成して作り公認コースとした東海地区で初めてのアスリート仕様、現在東海地区では一番有名なコース作り職人のカトペがしっかりとスキー場の社員となって作っているとのこと。どちらもマス層のモーグル愛好家で今でも元気に運営中です。
キャパシティという概念は、常にスキー場経営に付きまとう不可欠な判断材料なのです。
スキー場の方はスキー場の一部のコースが死んでいて人がいないためになんとかしたい、と言われることがあります。キャパシティを均衡に活性化させたいのは経営者の心理ではあります。
そう言ったシチュエーションはどこにでもあって、社内や地域でもアイデアは結構出るものです。若い人たちにはアイデアを創出するチャンスを与えることも必要でしょう。収支性をともなう現実性まで深く考えることも訓練となるでしょう。ただし、生まれるかもしれないアイデアの目を潰すことだけは避けていただきたい。チャンスを与えないことで、若い人たちがネガティブなること自体がスキー場経営にとって最も大きな損失だと思うのです。
<お問い合わせ・ご意見:cava@freestyle.co.jp>
スポンサーサイト
| HOME |